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城址跡に建つ常願寺への参道、右手に城址標柱
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歴史等 水沢城(すいざわじょう)は、応永5年(1398)加治信濃守が築城し、7代居城した。永禄11年(1568)、6代孫九郎の時に信長に臣従した。元亀元年(1570)清十郎が継いだが天正5年(1577)滅んだ。『現地説明碑より』 現況・登城記 西暦1655年、水沢城跡には常願寺の本堂初め11坊が元の如く再建された。山門へ到る参道の右手に「加治信濃守城址」の標柱が建ち、本堂の手前には城と城主についての説明付きの石碑が建てられている。本堂の南側から裏手にかけては土塁が残っている。 |
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本堂手前に建つ石碑 本堂の手前には石碑が建ち、城と城主の歴史が刻まれている。 ![]() |
山門の新築建立![]() |
本堂修復の記念碑![]() |
| 南側の土塁 本堂の横(南側)から裏手(西側)にかけては土塁がよく残っている。 南側の土塁は植栽で分かり辛いが、高さ2m以上あり、幅も広く立派で、 特に東先端部(写真左手前の方)は広く、鐘楼が建てられているが、 往時は物見櫓でも建っていたのであろうか。 ![]() |
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| 本堂裏手(西側)の土塁 西側の土塁は高さ2m弱で幅も狭いが、分かりやすい。 ![]() |
本堂裏手から眺める鐘撞き楼とお手洗い 鐘撞き楼は平成12年12月吉日再建立。 お手洗いは平成21年3月吉日再建設 ![]() |
平成12年12月吉日に再建立された鐘撞き楼

| 更 に 少し詳 し い 歴 史 | |
| 西1町(109m)、南北2町(218m)西南2面に堀があったが、現在寺の境内の南と西に土塁が残っている。平地上にあるので土塁の幅、高さとも4mあり、南側の堀は理められたが、本堂の背後の西側は、がんかい用水路こなっている。東側にも一部土塁があり、その上に鐘楼が建っている。昔、この寺は本郷(現在の宮妻町〉にあったものが、戦火のためこの城跡に移設されたと言われているが、また一説には最後の城主、加治清十郎が没して80年経過したころ、戦国武将の亡霊が夜な夜な出没したので、明暦三年(1657)年)当地へ寺院の本堂を建立し、加治氏代々の菩提を弔ったとも言われている。東條(水沢本町)では最近まで、お盆には太鼓踊りのひとつである「念仏踊り」が青年らによつて、初盆にあたる家々を回っていたが、実は前記のその供養のために始まったといれれており、寺の境内で毎年八月踊りが行れれていたのは、その名残である。 【常願寺建立までの加治氏の概要】 応永五年(1398年)加治(一説には森)信濃守氏が室町時代 (足利義持の頃)に来て、辻瀬戸(今の常願寺境内)に城を築く。 永享 6年(1434年)加治石見守城主 寛正 2年(1461年)加治信濃守城主 文明14年(1482年)加治石見守一城主 永正13年(1516年)加治三河守城主 天文 7年(1538年)加治孫九郎城主 永禄11年(1568年)織田信長に降伏して臣となり、城主は続く 元亀 1年(1570年)加治清十郎城主 天正 5年(1577年〉加治清十郎没し、七代にて滅亡。 |
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